①今思い出しても鳥肌が…
アメリカのシンガーソングライター、スザンヌ・ヴェガの「Tom's Diner」。今思い出しても鳥肌が立つほど衝撃的な一曲でした。ちなみに読み方は「トムズ・ディナー」ではなく、「トムズ・ダイナー」。「ダイナー」という言葉はあまり馴染みがないかもしれませんが、カジュアルで日常的なアメリカンフードを提供する、日本で言うなら大衆食堂のような場所のことです。
社会的なメッセージを込めた楽曲が多いスザンヌ・ヴェガの最大のヒット曲は、児童虐待をテーマにした痛ましい名曲「Luka (ルカ)」。1987年に発売され、全英2位、全米11位まで上昇したアルバム「孤独(Solitude Standing)」に収録されたこの曲が、虐待の現実を子供の視点から生々しく描き出し、全米3位のヒットを記録したことは大きな話題になりました。
だけど、スザンヌ・ヴェガのアルバム「孤独」を聴いた時、一番衝撃を受けたのはその「ルカ」ではなく、冒頭を飾る「トムズ・ダイナー」でした。一体何が衝撃的だったのか? それは… 歌い出しから終わりまで、演奏が全くない、完全アカペラだったこと。
何人かのグループでアカペラを披露する楽曲は聴いたことがあったけれど、ソロで、しかも全編アカペラというのは、当時の私にとって前代未聞の体験でした。ホイットニー・ヒューストンの「I Will Always Love You」の冒頭のアカペラも鳥肌モノでしたが、「トムズ・ダイナー」は最初から最後までずっとアカペラですからね。もう、開いた口が塞がりませんでした…。
Youtube【Tom's Diner】
②歌詞と和訳
I am sitting in the morningAt the diner on the cornerI am waiting at the counterFor the man to pour the coffee
And he fills it only halfwayAnd before I even argueHe is looking out the windowAt somebody coming in
"It is always nice to see you"Says the man behind the counterTo the woman who has come inShe is shaking her umbrella
And I look the other wayAs they are kissing their hellosAnd I'm pretending not to see themAnd instead I pour the milk
I open up the paper,There's a story of an actorWho had died while he was drinkingIt was no one I had heard of
And I'm turning to the horoscopeAnd looking for the funniesWhen I'm feeling someoneWatching me and so I raise my head
There's a woman on the outsideLooking inside, does she see me?No she does not really see me'Cause she sees her own reflection
And I'm trying not to noticeThat she's hitching up her skirtAnd while she's straightening her stockingsHer hair has gotten wet
Oh, this rain, it will continueThrough the morning as I'm listeningTo the bells of the cathedralI am thinking of your voice...
And of the midnight picnicOnce upon a time, before the rain began...And I finish up my coffeeAnd it's time to catch the train
③一般的な曲構成とは違って…
「トムズ・ダイナー」は一般的な曲構成とは違って、サビというサビがありません。淡々と同じメロディが繰り返され、それに合わせてストーリーが進行していきます。歌詞の内容としては、ビジネスマンやキャリアウーマンが行き交うニューヨークの朝の街並みを、「トムズ・ダイナー」という小さなレストランでコーヒーを飲みながら眺めている女性の視点で描かれています。店の中から外を見つめる彼女の目に映るのは、これからも毎日繰り返されるであろう日常の風景。そこには深い孤独感が漂っているようにも感じられます。感情を抑えたモノトーンのアカペラが、私をいつの間にかそのダイナーに座らせているような、そんな錯覚さえ覚えてしまいます…。
実は、スザンヌ・ヴェガ自身は、元々ピアノの伴奏をバックにこの曲を歌いたかったそう。けれどピアノを弾くことができず、自分のイメージ通りのメロディをつけられなかったため、苦肉の策としてアカペラにしたんだとか。結果的にそれがこの曲を唯一無二の特別な存在にしたわけだから、何が幸いするかわかりませんね。
④世界で初めてMP3フォーマットに…
驚くべきことに、この「トムズ・ダイナー」は、世界で初めてMP3フォーマットに変換された楽曲としても有名なんです。 MP3が試作段階を終え、いよいよ完成間近だった頃、ラジオから流れてきたこの曲を偶然耳にした開発関係者。シンプルなアカペラで歌われた繊細で美しい歌声は、当時のMP3の技術では十分に表現することが難しいと感じた開発者は、「MP3はまだ改善の余地がある!」と痛感。その後、音響システムなどの改良を重ねた結果、現在のMP3フォーマットが完成したと言われています。このエピソードから、スザンヌ・ヴェガは『MP3の母』とも呼ばれているんです。 まさか、アカペラの楽曲がデジタル音楽の歴史を動かすほどの革命的な一曲になったなんて、面白いエピソードですよね。
さらに、この曲には後日談があります。最初に発売された時は完全アカペラだったけれど、1990年にイギリスのDJグループ「D.N.A」が、なんと無断でこの曲をカバー。そしてヨーロッパ各国でトップ10入りするほどのヒットを飛ばしたのです。無断カバーの上に、原曲とは全く異なる、ハウスっぽいアレンジ。普通なら訴訟沙汰になってもおかしくない状況なのに、なんとスザンヌ・ヴェガ側はこのアレンジを気に入り、D.N.Aとのコラボレーションを申し入れたというから驚きです…。